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歩いて重ねてエセーを書く鷗外先生

渋江抽斎は Feel℃ Walk & Fantasy Work の教科書

荷風先生を追っていくうちに、たまたま荷風先生が尊敬する人として鴎外先生が浮かび上がり、さらには数ある鴎外作品の中でも『渋江抽斎』に大きく影響を受けていたことを知った。そこで、先週、谷中に行くついでに感応寺の渋江抽斎の墓を訪れたのであった。

 

門前に掲げられる案内板を読んで、初めて、渋江抽斎が江戸時代の儒者で医者であり、東大医学部の前身となる医学館の講師を務め、天然痘の治療に貢献したことを知った。ただ、大河ドラマに取り上げられるような派手な経歴は一切ない。もし、鴎外が取り上げなければ完全に忘れ去られたであろう。

 

そんな抽斎をなぜ、鴎外先生は最晩年に取り上げたのか。そして、なぜこの作品に荷風先生が魅せられたのか。

 

感応寺を訪れた後、待ち合わせた知友と根津の名物書店・往来堂に立ち寄ると、棚に並ぶ岩波文庫の中に『渋江抽斎』があった。鴎外の他の作品とは異なり分厚いが、即、購入した。

 

帰りの電車の中で読み始め、十ページもいかないうちにこの本の魅力にとりつかれた。それはまさに探究フィールドワークそのものだったからだ。ちょっと不遜な言い方をしてしまえば、

 

「鷗外先生も同じことをしていた!」

 

という感動であった。鷗外先生の歩んだ道の端くれを我も歩もうとしていることの喜びであった。

�話は、鷗外先生が集める古本にことごとく「弘前医官渋江氏蔵書記」という朱印が押されていることに気づき、いったいこの渋江氏とは誰かという素朴な疑問から始まる。自分と同じ本を収集しようとした人物がいたことに興味を持ち、どんな人物なのか知りたいというただそれだけの動機に過ぎなかった。

 

この辺りからして、司馬遼太郎さんの描くような歴史小説とは大きく違ってくる。英雄や隠れた逸材を発掘し、彼らがいきいきと躍動する姿を彷彿させる、ワクワクドキドキにあふれた醍醐味は微塵もない。したがって、通常の歴史小説を愛する人が『渋江抽斎』を読んで、つまらん、どこが傑作なのかわからんと文句を言うのもよくわかる。

 

しかし、鷗外先生は歴史的事実を見てきたように語るというスタイルをあえて捨てた。主人公は、抽斎ではなく、抽斎を探り出そうとする自分、つまり鴎外自身なのである。自分が気になった人物を、どんなふうに追いかけ、掘り出し、抽斎と自分の生き方をある時はシンクロさせ、またある時は違いを浮き彫りにさせながら、過去が私たちに与える意味、歴史と私たちとのつながりを伝えたかったに違いない。

 

300ページを超える文章は、ひたすら飛び石づたいにあっちへ行き、こっちへ行く先生自身のフィールドワークと思索の記録なのである。

 

渋江道純という人物が抽斎と一緒か……抽斎の子孫は今どこにいるのか……抽斎の家族、師、友人はどんな人物か……彼らが抽斎にどんな影響を与えたのか……

 

こういったことをあたかも探偵のように丹念に明らかにしてゆく。

 

調べてゆくと、抽斎と自分の境遇が似ていることに鷗外先生は気づく。

 

「抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして経書や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史を読み、詩文集のような文芸面の書をも読んだ。その迹(あと)が頗(すこぶ)るわたくしと似ている。ただその相�殊(こと)なる所は、古今時を異にして、生の相及ばざるのみである」(『渋江抽斎』その六)

 

江戸時代の大名についてさまざまな特徴を記した「武鑑」というガイドブックと「江戸図」と呼ばれた地図を集めるのを趣味としたところまでそっくり。

 

「もし抽斎がわたくしのコンタンポラン=同時代人であったなら、二人の袖は横丁の溝板(どぶいた)の上で摩(す)れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間になじみが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである」(『渋江抽斎』その六)

 

と鷗外先生は抽斎に心ひかれ、導かれるままに文を書き進めてゆく。

 

知り合いから情報を得ればそこへ出向き、インタビューする。資料を得れば、そこに描かれていることから自由に妄想をふくらませる。�官僚としての栄達と自分が本当に目指したい学問との狭間で苦しみ続けた鷗外先生が、官の仕事にけりをつけて、肩の荷を降ろして、好きなことに没頭している気分が全編にあふれている。ひたすら Field Work し、自分の Feel ℃ がどんどん高まり、発見し、洞察が生まれるのを純粋に楽しんでいる。

 

抽斎の境涯を知れば知るほど、追えば追うほど、さらに、抽斎だけでなく、妻・五百や友人、そして子どもたちの姿をあわせて追いかけてゆくほど、鴎外自身が背負ってきた人生の意味、そして、人間が人生を送ることの意味が明らかになってくる。

 

抽斎を知ることで自分が見える。抽斎というコンテンツを通して時代を超えても共通するコンテクストが見え、さらに個人を超えたひとの一生を貫くコンセプトが見えてくる。

 

まさに今、自分が Feel ℃ Work で目指していることを鷗外先生というすばらしい師が、最高の形で教えてくれるバイブルが『渋江抽斎』だ。それもこのタイミングで出会えるとは、やはりこれもフォースの導きだ。

 

「永井荷風先生の亡くなられたときのことですけど、私の主人(画家・小堀四郎氏)がわりに親しくしていただいていたものですから、お亡くなりになったということを伺って、すぐ市川のお宅へ駆けつけたんです。おひとり暮しでああいうご最後でしたから、警察のほうでどなたも中に入れなかったんですね。それで主人が、まあ生前親しくしていただいたということで、最初にお部屋に入ったんです。ですから、全くの亡くなられたままの状態だったわけですが、そしたら荷風先生の枕もとに、本がページを開いたまま伏せてあったんです。何を読んでらしたのかなと思って、取り上げてみたら、それが父の『渋江抽斎』だったんだそうです」(『日本の文学3森鷗外(二)』中央公論社・月報 小堀杏奴と大岡昇平の対談、「文豪鷗外の肖像」から鴎外の娘、小堀杏奴の発言)

Feel ℃ Work の師・荷風先生が最後の最後まで座右に置いたのが渋江抽斎だったということが、今は、少しわかる。

 

こんな形で、荷風先生、鷗外先生と通じることができるなんて夢にも思わなかった。

 

「もし鷗外先生と荷風先生がわたくしのコンタンポラン=同時代人であったなら、三人の袖は横丁の溝板(どぶいた)の上で摩(す)れ合ったはずである。ここにお二人の先生とわたくしとの間になじみが生ずる。Feel℃ Work を通じて、文豪を親愛することが出来るのである」

 

鷗外先生の愛した江戸絵図を荷風先生も懐に街を歩いた。荷風先生が緊張して、千駄木の鷗外先生のお宅を訪ねると、軍服のズボンに白シャツ一枚の気取らぬ姿で

 

「ヤア大変お待たせした。失敬、失敬」

 

と現れた。そこに、さらに小さくなって、私が訪ねたら尋ねたらお二人はなんて声をかけてくれるだろう。

 

と「妄想」に浸るのが時空を超えた Feel ℃ Work の醍醐味だ。