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子規エピソードつれづれ

正岡子規は一高時代にスペンサーの『文体論』を読み、

 

「さみしくといはずして自らさみしき様に見せるのが尤(もっとも)詩文の妙処」(『筆まか勢』第一編「古池の吟」)

 

と知り、俳句の深意を悟ったと言う。

正岡子規は、向島長命寺の桜餅屋の二階に下宿し、『七草集』という冊子をまとめた。短歌・俳句・漢詩・小説と様々な文章を書いてまとめたが、冊子の冒頭には、子規が散策したところの写真が。やはり徘徊してインスタ俳句」の祖だ。

『七草集』をまとめてしばらくして、子規は喀血。自らの号を「子規」と呼ぶようになる。『七草集』を読み、感激し、批評の言葉を寄せた時、夏目金之助は「漱石」の号を初めて用いた。漱石は、旅行に出て作品をまとめる子規に影響され、子規同様房総を旅し、漢詩集『木屑録』を書いた。

漱石と子規は二人で作品を批評し合い、お互いの力を高めていった。

漱石は子規を俳句の師匠と認め、また、子規も漱石とともに語り、歩き、批評しあうのがとても楽しかったようだ。芭蕉の俳句を収めた『俳諧続七部集』を子規は蔵書に持っていたが、表紙の裏に横浜からの帰りに漱石の家により、共に神楽坂の本屋に行き、この本を買ったというメモ書きがされている。知的に馬が合い、インスパイアし合うなんとも素敵な友人関係であろう。

漱石が松山の中学英語教師になると、子規も病気療養のために故郷に戻る。漱石の下宿での共同生活が始まった。

漱石は二階建ての家に「愚陀仏庵」と名付け、一階に子規、二階に漱石が住んだ。

子規は病人で、居候のはずだが……

「僕は二階に居る。大将は下に居る。そのうち松山じゅうの俳句をやる門下生が集まって来る。僕が学校から帰ってみると毎日のやうに多勢集まって居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。もっとも当時はあまり本を読む方でも無かったが、とにかく自分の時間といふものが無いのだから止むを得ず俳句を作った」(夏目漱石『談話 正岡子規』)

「余は交際を好む者なり」(正岡子規『筆まか勢 第一稿 交際』)

この言葉のまま。子規は人を巻き込み、人と共に何かを創る才があった。漱石もそのことを認めざるを得ず、またそんな子規が好きだったのだろう。

子規は、家にいるだけではなく、病気療養とはいえまだ歩くことができたので、道後温泉を含め松山周辺を散策し、俳句を作った。

 

「明治二十八年十月六日 今日は日曜なり 天気は快晴なり 病気は軽快なり 遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ 三層楼中天に聳(そび)えて 来浴の旅人ひきもきらず 温泉楼上眺望 柿の木にとりまかれたる温泉哉」

 

最後の俳句を下手とみるか。それとも、あたかも日本語ラップのような前書きに続いて、温泉場の秋、豊かな柿の実、暖かな感じ、暖かなのんびりした秋の日、というような情景を伝えようとしているととるかは受け手の問題。

 

私はこのぐらいの勢いで「写生」してゆくところにインスタ俳句の妙があると考える。